修験者等の食糧確保から献上そばに至るまで
滋賀県と岐阜県の境にある伊吹山は山岳信仰の拠点、修験の霊場として知られていますが、伊吹山のそば栽培の起源と関係深いのが、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、伊吹山中腹に開かれた太平護国寺です。
その僧侶や修験者が食料を確保するために、そばの栽培が始まったものと思われます。太平寺付近は石灰岩の分布地帯。傾斜地でもあり、元から水田には適していない。そのため、そういう条件下でも栽培可能なそばを作り始めたと思われます。

彦根藩井伊家文書の『伊吹山絵図(作成年不詳)』
彦根藩井伊家文書の『伊吹山絵図(作成年不詳)』、「元文己未(一七三九)十二月写」銘のある『伊富貴山之図』(彦根城博物館蔵)には、太平寺より上、伊吹山の西面に「蕎麦畑」が描かれています。
傾斜による排水性の良さ、冷涼な気候、昼夜の寒暖差が大きいという環境は、そばの作物としての適性に合致し、後に、高い評価を得ることになります。いくつかの文献によると、彦根藩から江戸幕府に献上され、「伊吹蕎麦。天下にかくれなれば。辛味大根。又此山を極上とさだむ。」と、天下に銘を知らしめられたとされています。
そうして「伊吹そば」は人々に賞賛され、諸侯や藩士への贈り物として用いられたり、太平寺では客人に振舞われたりしました。
伊吹山麓が「日本のそば栽培発祥の地」と呼ばれる理由
「そば」の起源は中国雲南省とされていますが、日本では、縄文時代の遺跡からソバ属の花粉が見つかっており、そば栽培は、縄文時代に始まったと考えられています。また、遺伝学的な分析によると、中国北部から朝鮮半島を経由して日本に伝播したということが明らかにされています。その遺跡の数や分布の推移から、そば栽培は奈良・平安時代に広く定着し、中世に最も盛んになったようです。
では、日本のそば栽培は縄文時代に始まったのに、なぜ、伊吹山麓が「日本のそば栽培発祥の地」と言われるようになったのか。それは前述の、そば畑の位置に加え、伊吹山の地理的な背景が関わっていると考えられます。
文献には、琵琶湖から伊吹山を眺めると太平寺村辺りはそばの白い花で埋まっていた様子が記されています。
そして、長浜、遠くは琵琶湖の対岸の高島からもそばの白い花が見えたと言われています。伊吹山は東西文化が交わる地点であり、陸路、水路がぶつかり合う交通の要。この、そば畑の風景が地域の住民や往来の人々に広く知られるようになり、徐々に伊吹山麓が「日本のそば栽培発祥の地」と呼ばれるようになったのだといわれています。